最勝院五重塔東北一の美しさを誇る五重塔。その理由と建てられた歴史の裏
- 津軽藩の建立を命じた五重塔
- 人々に親しまれた五重塔
- 五重塔は供養のために建てられた
- 五重塔は誰が作ったのか
- その美しさの秘密とは
- 相輪のバランスも美しさの理由
- 塔の中心は全国でも珍しい一本杉
- 地震に強いが風には強くはない?
- 初重に収められているものは?
- 釘は使われていない?
- 組物の美しさも「最勝院五重塔」の魅力
- 環境にも木にも優しく、長期保存に適した「辨柄(べんがら)」塗り
- 四季折々の美しさを見せる
- 青森で最古の尊像・最勝院仁王像
- 境内にある建物や記念碑
- 金剛山最勝院住職布施公彰師よりひとこと
弘前公園から南東に1キロほど離れた台地の上に位置する「最勝院五重塔」。日本各地には五重塔が複数存在するが、江戸時代以前の建立で現存する五重塔は全国で22塔あり、「最勝院五重塔」は中でも最北の五重塔で、「東北地方第一ノ美塔ナリ」と称された。明治41(1908)年には青森県で初となる国の重要文化財に指定(当時は国宝指定)。津軽藩第一の寺格を誇り、津軽一円の寺社に大きな影響力を持った真言宗智山派の寺院「最勝院」とその五重塔の美しさを解き明かす。
津軽藩の建立を命じた五重塔
「最勝院」は明治時代の神仏分離の際に現在の場所に移った。以前は真言宗大円寺があり、津軽藩が編集した官撰史書「津軽一統志」によると五重塔は大円寺を創建した京海が、3代目藩主信義の帰依を受けて作ったものとされる。京海は着工後に亡くなってしまったため、工事は一時中断したが、後を継いだ當海によって工事は進められ、4代目藩主信政のとき、寛文6(1666)年に竣工した。
人々に親しまれた五重塔
当時の様子は「鏡池春景之図」(弘前市立博物館館蔵)で知ることができる。この絵図は嘉永2(1849)年に描かれた鳥瞰(ちょうかん)図で、五重塔、南溜池、岩木山を配置している。南溜池は現在の弘前大学医学部南塘グラウンドとなっている場所にあった人工池で、明治時代に埋め立てられてしまったが、「鏡ヶ池」との愛称で呼ばれ、景勝地として親しまれていたという。絵図にはまさに岩木山が鏡のように湖面に映り込み、南溜池を挟むかたちで五重塔が描かれており、弘前の景観美に華を添えるような存在だった。
五重塔は供養のために建てられた
五重塔は下から初重(しょじゅう)・二重・三重・四重・五重と、文字通り5つの重(層)からなり、卒塔婆(そとば)の起源とされる。卒塔婆とは、墓の後ろに立て掛ける縦長の板のこと。板には追善供養するための梵字や真言などが書かれ、上部が方・円・三角・半月(半円)・宝などに形造られているが、それぞれ地・水・火・風・空という5つの要素を意味した形となる。密教の世界観を表したものであり、五重塔は五層であることに大きな意味を持つ。つまり五重塔は巨大な卒塔婆であり、日本が世界に誇ることのできる、高層木造建造物の一つといえるだろう。寺伝によると、藩祖為信の津軽統一の過程で戦死したすべての人たちを供養するために「最勝院五重塔」は作られたとされる。敵味方の区別なく平等に供養し、供養塔として建立した点において、博愛思想を示す塔になっている。
五重塔は誰が作ったのか
「最勝院五重塔」の建立に実際に関わった棟梁は誰だったのか。建立当初の棟札がないため、歴史を裏付ける物がないが2つの説がある。一説目は、弘前の白神山地に近い山間の集落・東目屋地区の大工棟梁・竹内彦太夫という説。竹内一族は藩お抱えの棟梁で、岩木山神社や津軽家の歴代藩主を祀った長勝寺の津軽家霊屋などの建築に携わったことが知られている。もう一説は、飛騨高山から名工を呼んだというもの。どちらにしても決定的な資料は残っていない。
その美しさの秘密とは
「最勝院五重塔」は奈良の「法隆寺五重塔」に極めて近い形をしており、上層にいくと小さくなっていく逓減率(ていげんりつ)がほぼ同じで、大和比(白銀比)になっている。大和比とは国内の寺社建築や仏像の顔、日本絵画などで用いられる「日本人が美しいと感じる比率」のこと。その比率1:1.414(√2)で、A判用紙にも使われているため馴染みやすい。青森県第一号の指定はダテではなく、国指定重要文化財の指定説明に「実ニ東北地方第一ノ美塔ナリ」と言われる所以でもあるだろう。
さらにその美しさは、「最勝院五重塔」が津軽一円を見渡せるような高台に建っていることもあり、街中からでもひときわ大きな存在感として放っている。藩政時代は監視塔としての機能もあったとされるが、現在においては弘前のランドマークとして市民から愛され続けている。
相輪のバランスも美しさの理由
「相輪(そうりん)」とは、屋根の上にあるアンテナのような部分のことで、7つの部分からなる。下から露盤(ろばん)、伏鉢(ふくばち)、請花(うけばな)、九輪(くりん)、水煙(すいえん)、竜車(りゅうしゃ)、宝珠(ほうじゅ)と重ねられ、受花から宝珠に至るまでは檫管(さっかん)が心柱の周りを覆って取り付けられている。インドの仏塔の傘蓋(さんがい)が発展したもので、仏教を拝むシンボルになっている。
「最勝院五重塔」の相輪は約9.4メートルと江戸時代に建てられた五重塔の中では長く、全高の約3分の1にあたる。相輪と塔全体が均等の取れたプロポーションになっている。また、土手町通りにある街灯の形も相輪に似せて作られている。
塔の中心は全国でも珍しい一本杉
「最勝院五重塔」は高さ31.2メートルで、塔の中央にある柱「心柱(しんばしら)」は初重の天井裏から相輪の最先端まで継ぎ手がない一本角形杉材でできている。心柱が一本ものという構造は、国宝・重要文化財級の五重塔では全国でも「最勝院五重塔」だけ。 寺伝には白神山地の玄関口で最勝院からは約20キロ離れた山里・西目屋村にある毘沙門堂裏山から切り出したものとされ、古文書にも記述があったという。しかし、山間にある場所から最勝院まで長さ30メートルも近い木材を切らずに当時の技術でどのように運んだのか。岩木川を使って木材を運び林業が栄えていたが、一本杉をそのまま運ぶことはかなりの困難があっただろう。一本杉にこだわった津軽の「じょっぱり(津軽弁で頑固者)」を感じさせる。
地震に強いが風には強くはない?
心柱は地震に強く、その技術は古来より五重塔に使用されており東京スカイツリーにも応用されている。五重塔が地震で倒壊した例はないが、強風、特に台風では倒壊したことがあった(今から90年前の室戸台風では大阪・四天王寺の五重塔が倒壊)。平成3(1991)年9月に発生した、のちに「りんご台風」と呼ばれた台風19号では全国に甚大な被害をもたらしただけでなく、「最勝院五重塔」も被災。倒壊の危機に瀕した。
青森県内で観測史上最高の最大瞬間風速53.9m/sの強風を受けた「最勝院五重塔」は危険を感じるほど、一時は傾いていたという。急きょ建立から初めてとなる、全面解体を行うことになった。建立後300年の歴史の中で6回の修理はあったが全面解体は初。3年かけて行われた解体工事では、初重から「寛文四年八月十日」と刻された貫(ぬき)が発見されるなど歴史的な発見が多いものとなる。
中でも心柱が曲がっていたことが判明し、大きく注目された。五重塔の「相輪」が垂直に見えるように調整してあり、根本は中心よりズレていたという。組み立て直す際、耐震の観点から心柱の曲がりを矯正するために切り分けるなどの案が浮上したが一本杉であることを後世に残すことを最優先。曲がった部分はそのままに心柱が中心よりズレていることで生じた「偏心モーメントという五重塔存続に関わる構造の是正」という全国の名工でさえも未だかつて経験したことのない大工事が行われた。「最勝院五重塔」を次世代に引き継ぐための大工事は、外観のみからは決して知り得ないものであり、工事関係者の英知と宮大工の卓越した匠の技を結集して成就し、現在でも一本杉心柱という五重塔の姿を残している。
初重に収められているものは?
「最勝院五重塔」の初重には本尊である胎蔵界大日如来(密教においては最高仏とされている仏様)、脇仏に十王像が安置されている。明治初頭の廃仏毀釈によって不在となっていたため、現在の住職布施公彰師が平成15(2003)年に新しく本尊を奉安した。新しい本尊は青森にゆかりのある人物や産物にこだわり、彫刻は青森在住の小西正暉、彩色・截金は弘前出身の渡邊載方に依頼。津軽ヒバの接ぎ合わせ木造で、一部に彩色を為し、衣部分には薄い金箔を細く切った截金で細密な文様を施した。
釘は使われていない?
五重塔は心柱だけでなく、積み木のような単純に重ねられている構造が地震に強い理由になっている。各重が互い違いに揺れることで、全体の衝撃を吸収する仕組みだ(心柱は塔の重さを支えていないため、強い揺れには振り子のように動く)。それぞれの木材が組み合わされた「組物」は釘を使わないことで、可動となり揺れを逃がす構造となっている。しかし、建物全体で見れば、たとえば屋根の野地板など多くの箇所に、釘や鎹(かすがい)など金物はたくさん使われている。人の口づてに「釘は一本も使われていない」などと大げさな表現が流布しているのだろう。
耐震に強みがある一方で、「最勝院五重塔」の最大の特徴として、各重に床が張られていることが挙げられる。一般的な塔建築では全体の強度を優先させるため、部屋構造とするのは初重のみ。それ以外の重は、内部の四天柱に肘木を貫通させる通肘木(とおしひじき)や尾垂木を内部まで通して各重を強固に安定させるのが一般的。しかし、「最勝院五重塔」では中央の心柱付近より板壁・側柱まで床板を張り、人が入れるほどの広さを確保し、全体の強度を犠牲にしてまでも内部空間を充実させている。
組物の美しさも「最勝院五重塔」の魅力
各柱に三手先(みてさき)を置き、中備(なかぞなえ)に初重は十二支の文字が彫り込まれた蟇股(かえるまた)、二重は蓑束(みのづか)、三・四・五重は間斗束(けんとづか)が使われている。柱間は各面中央間を扉とするほか、残りは板壁。初重は正面が連子窓、他の三面は円窓盲連子、四面に観音開きの盲連子桟唐戸を備えるほか、二・三重に香狭間、四・五重に矩形の盲連子をつくるなど、各層のそれぞれに意匠の変化を持たせている。このような細部にわたって、見るものを飽きさせないこだわりがある。
環境にも木にも優しく、長期保存に適した「辨柄(べんがら)」塗り
「辨柄(べんがら)」はインドのベンガル地方産のものを輸入したために、「べんがら」と名付けられた塗料。土を焼いて酸化させ、柿渋をまぜて作ったもので、塗りたてはまるで漆を施したようになる。経年で漆のような柿渋は数年でなくなり、粉状の赤黒い土だけが残る。赤い粉は手に付くほどだが、粉状であるために木部の呼吸が可能となり、木部の長期保存に適している。青森県今別町にある赤根沢地区は、辨柄(べんがら)の産地で、県の天然記念物に指定されている。藩政時代には顔料として採掘され、役人を置いて管理させた記録があり、寛文10(1670)年、延宝3(1675)年、貞享3(1686)年に幕府に献上している。日光廟の赤塗りの原料は赤根沢産のものだといわれている。 最勝院五重塔の辨柄(べんがら)作成においては、微量に残った辨柄粉を青森県の工業試験場の調査により、土の種類や産地の確認、焼く温度の微調整、柿渋の産地を推測するなど試行錯誤を繰り返しながら現在の色が決定された。
四季折々の美しさを見せる
最勝院の境内には四季によってさまざまな表情を見せる。弘前といえば桜の名所として知られる弘前城が有名だが、最勝院の枝垂れ桜も負けず劣らず。五重塔と桜のツーショットを撮影するために全国からカメラマンが訪れるほどのフォトスポット。また夏は彼岸花が境内に咲き、秋は紅葉、冬は雪とのコラボは最北にある国重文五重塔ならではの魅力がある。
青森で最古の尊像・最勝院仁王像
寺院の入口に立つ2体の「仁王様」(木造仁王立像)は、平成29(2017)年秋に仁王像の左目が老朽化によって落下していたことが発覚。修理を依頼したところ、目だけでなく全体的に各パーツが緩んでいることが分かり、全身の解体修復となった。像胎内から承應2(1653)年の墨書が発見されたことから、青森県で一番古い尊像であることが令和2(2020)年の解体修理で明らかになった。
寄木造りの像全解体は、日数と工程を大幅に押し上げ、費用は倍額となる。これまで造立の年号や製作の仏師は一切不詳であったことから、文化財指定は受けておらず公費の助成が難しいことから、その資金調達が最大の難関となった。最勝院檀徒に加え、仁王像への思いを持つ地元信者が中心となって寄進は順調にのび、クラウドファンディングによって全国へと展開した寄進勧募活動は功を奏して無事成功した。胎内奉納式が令和4(2022)年2月8日に東京都世田谷豪徳寺の明古堂にて厳修された。令和5(2023)年4月に最勝院本堂へ仮安置し、檀信徒への結縁式を厳修後同年5月10日(旧3月21日弘法大師正御影供)には仁王門への遷座式が厳修される予定である。
境内にある建物や記念碑
最勝院境内には本堂のほか、護摩堂、如意輪観音堂(六角堂)などの伽藍(がらん)がある。どれも再建や、損傷や剥落から大規模な修復が行われたものだが由緒あり、明治期の神仏分離令による廃寺などから免れて今日まで残されている。建物以外でも、三十三観音像や鐘つき堂、国指定重要文化財に指定されている旧第五十九銀行本店本館や太宰治の生家で現在は記念館となっている「斜陽館」など、明治時代に青森県のさまざまな洋風建築を手がけた大工棟梁・堀江佐吉の記念碑がある。
金剛山最勝院住職布施公彰師よりひとこと
「最勝院五重塔」は国重要文化財指定説明で『實ニ東北地方第一ノ美塔ナリ』と称讃されており、重要文化財では最北端に位置する五重塔です。冬の厳しい環境で立ち尽くす姿を自らの辛い境遇に重ね合わせ、奮い立たせておられるというお話しもおうかがい致します。あでやかな春夏秋だけではなく、冬の雪中に凜と立つ「最勝院五重塔」も是非ご覧頂きたいと存じます。外観からは想像しづらいほどに、初重内部は極彩色に彩られており、見る者に感銘を与えるといって良いでしょう。但し、内部は一般公開はしておりません。僅かばかりですが、写真を掲載させて頂きますので、ご覧下さい。
どうしても、建築美という目に見える事柄が注目されがちです。しかし戦国時代に、はからずとも戦死されました武将・兵士・民衆全ての方々の冥福を祈る供養という心が込められているという事、これまで7回に亘る修復工事に込められた先徳の努力・英知・技術の結実・結晶である事、これらを忘れてはなりません。拙衲は最勝院歴代先師(住職)の末席に座している者として、今に生きる人々の安寧を衷心より祈りつつ、最勝院五重塔を次世代へ継承することに心を砕いて参りたいと念じています。
「最勝院五重塔」は木造ですが、建立当初においては超高層建造物だったといえます。現在、弘前市は景観をとても大切にしており、そのお陰で現在においても市中の離れたところからも「最勝院五重塔」の景観という意味において、その雰囲気を味わえる場所がいくつか存在します。特に、詩人一戸謙三が方言詩集『弘前』の冒頭で、五重塔遠景を見事に切り取っている場所が今でもあります。
この写真は謙三詩『弘前』に詠われたと同じ時期、三月お彼岸の入りに拙衲が謙三の詩を念頭に、弘前の素晴らしさに思いを込めて逢来橋方面から撮影させて頂いたものです。当該写真は『最勝院史図版編』第一景からこちらのHomePageに転載させて頂きました。
逢来橋は弘前市内の繁華街の一つ、土手町に現存するとても有名な橋です。当HomePageにアクセス頂きました方には是非、ここ弘前においで頂き、この場所から弘前という素敵な街をジワッと感じて頂けましたら、と思います。
建築概要
名称 | 最勝院五重塔 |
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設計 | 不明 |
竣工 | 寛文6(1666)年 |
構造・規模 | 木造、総高約31.2m |
所在地 | 〒036-8196 青森県弘前市銅屋町63 |
文化財指定 | 明治41(1908)年 国指定重要文化財 |
沿革
文亀1(1501)年 | 大圓寺、鯵ヶ沢に創建 |
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天文1(1532)年 | 最勝院、堀越に建立 |
慶長16(1611)年 | 最勝院、弘前城下鬼門鎮護に移転 |
慶長19(1614)年 | 大圓寺が銅屋町の現場所に移転 |
寛文4(1664)年 | 五重塔着工 |
寛文6(1666)年 | 五重塔竣工 |
宝永4(1707)年 | 五重塔1回目の半解体修理 |
元文2(1737)年 | 五重塔2回目の半解体修理 |
明和2(1765)年 | 五重塔3回目の半解体修理 |
享和2(1802)年 | 五重塔4回目の半解体修理 |
万延元(1860)年 | 五重塔5回目の半解体修理 |
明治4(1870)年 | 廃仏毀釈により最勝院・大圓寺が寺格移転、百澤寺が廃寺 |
明治41(1908)年 | 五重塔 国宝指定 |
昭和2(1927)年 | 五重塔6回目の半解体修理 |
昭和25(1950)年 | 国指定有形文化財に改称 |
平成3(1991)年 | 台風19号(りんご台風)に被災し倒壊の危機 |
平成4(1992)年 ~ 平成6(1994)年 | 五重塔 全解体修理 |
基本情報
区分 | 重要文化財 |
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住所 | 青森県弘前市銅屋町63 |
所有者 | 最勝院 |
公開状況 | 外観のみ公開 |
交通 | 【バス】 JR弘前駅より弘南バス 新寺町方面行き「弘前高校前」下車徒歩2分 【車】 東北自動車道 大鰐弘前IC 弘前市内方面へ約20分 |
関連リンク |