HIROSAKI Heritage|建物が語る弘前文化遺産
あおもり創成パートナーズ株式会社
弘前市仲町伝統的建造物群保存地区

江戸時代の暮らしぶりが分かる武家屋敷街「弘前市仲町伝統的建造物群保存地区」

 

弘前城の北に位置し、広さ10.6ヘクタール(東京ドーム約2個)の「弘前市仲町伝統的建造物群保存地区」は1978(昭和53)年、国の重要伝統的建造物群保存地区(以下、「重伝建地区」)に選定された。保存地区には江戸時代の城下町整備の地割り(土地の区画)が今もよく残るほか、道路沿いのサワラの生垣、点在する門や板塀、前庭などが独特の景観を生みだし、城下町の雰囲気を残し続けている。  

弘前市仲町伝統的建造物群保存地区
弘前公園近くにある閑静な仲町の通り

中・下級武士たちが住んだ街並み

仲町(なかちょう)は馬喰町、若党町、小人町という弘前城北側に位置する城下町の地区名。現在の住所にある地名ではない。名前の由来は、弘前城を中心に東側を「上町」、西側を「下町」と呼び、その中間に位置することから「仲町」と呼ばれたとされる。重伝建地区の種別は「武家町」。江戸時代の武家屋敷街の景観を今に伝える地区として重要な場所で「伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持しているもの」という評価を受け、重伝建地区に選定された。

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弘前市仲町伝統的建造物群保存地区を案内する掲示板

仲町の成り立ちは弘前城築城までさかのぼる。築城当初は正門だった亀甲門(北門)の守りを固めるため、地割りされたのがその始まり。亀甲門前の向かいには商家が並び、仲町はその裏手に位置する。当初は下級武士が配置された。大名を頂点とする身分制度によって支配体制を確立していた藩社会。大名に仕えていた武士たちは、現在で例えるなら会社員。仲町の屋敷はいわゆる「社宅」。出世や役職が変われば、引っ越すことも多かったという。

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青森県重宝の旧岩田家住宅。中流武士の岩田家が住んでいた

仲町の価値は、中・下級武士たちが住んだ街だからこそある。なぜなら文化財指定などを受けて保存される施設は、大名家をはじめとする支配機構の上部を構成する人々の住まいが中心。贅(ぜい)を極めた資材と一流の技術によって作り出されたため、もちろん今なお価値が高い。一方、質素倹約を旨とする生活や自給自足的な生活様式だった多くの中・下級武士たちの住宅はほとんどが残っておらず、生活の詳細はあまり明らかになっていない。 仲町はそんな武士たちの暮らしが感じ取れる街になっている。

武家屋敷街の魅力を引き立たせるサワラ生垣

津軽地方では武家住宅、寺社、町家の境界にサワラの生垣がよく用いられている。保護地区内では環境物件として79件のサワラの生垣が重伝建地区に指定。仲町の歴史的な風致を伝える最も大きな要素になっている。

サワラはヒノキ科の常緑針葉樹で山林に自生し成長も早く、ヒノキよりも軽く軟らかいため、一般的には柱以外の建築材や、器具材に利用される。北限は岩手県。津軽地方では植栽しても成長が遅かったため、逆に垣としての活用が進んだ。水湿や雪にも強かったことも、生垣として利用された理由として挙げられるだろう。

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敷地の境界に使われるサワラの生垣

サワラ生垣は、1間ごとに丸太を打ち、間を竹で格子を作り、交差部を縄で結ぶ。高さは1.8〜2.1メートルを基準とし、せん定によって揃えるようにしている。通りからは敷地内の眺めを遮断する一方で、圧迫感を与えず、中からは通りの往来の気配を感じる程度を基本としている。

地域住民が手入れし、竹支柱の交換や新規植樹が行われている。なお、隣地境界の生垣に関して、片側ずつ維持管理する習わしがある。

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1950年代に道路が1間(1.8メートル)ほど拡張されたため、現在のサワラ生垣はほとんどが移設しているもの
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それぞれの家でサワラをどのように育てたのかを見ることも歴史を感じ取れるポイント

軒を連なる表門と板塀

仲町にある全建物数は現在、277棟。伝統的建造物は29件(門20件、主屋8件、土蔵1件)で、工作物(板塀)の5件を合わせて計34件。全体の約1割が重伝建地区の対象になっている。その中で門は、冠木門(左右の門柱を横木によって構成した門)、棟門(棟木を支柱2本で支え、板軒や垂木で支持する門)、薬医門(切妻屋根をかけた門)、門柱の4つに分類され、生垣とならぶ景観づくりに一役買っている。

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旧笹森家住宅の棟門
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旧梅田家住宅の冠木門

冠木門はすべて新築修景によるもので、藩政時代から残る門は限られる。江戸時代は大半が冠木門であったと考えられているが、明治以降に藩による家作規制(身分によって主屋の大きさや建築できる構築物が決まっていた)がなくなったことで、棟門や薬医門へと改造が進んだとされている。しかし、冠木門の支柱を生かして改造した可能性が高い棟門、薬医門は2基確認されている(どちらも一般住宅)。

大正・昭和時代になると、簡易な2本の門柱による表門が増え、上部はトタンや銅板で耐水加工を施すタイプが増えていった。板塀も修景のため新設するケースはあるが、決してその雰囲気を損なうことがないように造られ、景観の要素として不可欠な存在になっている。生垣と板塀、そして、表門。2019年には無電柱化が完了し、西に見える津軽富士・岩木山との景観が、仲町の雰囲気を演出している。

前庭と裏庭から見ることができる武士の生活

表門から主屋へ至る「前庭(ツボ)」と主屋の後方に配置する「裏庭(カグヂ)」の存在なしに仲町の屋敷を語ることができない。前庭は生垣と住宅を区切るために配置し、座敷から眺める庭として整備されることが多い。前庭に面した屋敷は開放的な構えになっているが、生垣や前庭に植えた樹木、板塀で通りから隠されて見えない作りになっている。

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前庭や樹木が独特の景観を生み出している

現在も伝統的な庭づくりをしている前庭は5カ所あるが(いずれも一般住宅)、代々の家主が庭づくりをしているため、江戸時代の作庭は分からないことが多い。一方で明治時代以降、津軽地方では独特の作庭技術「大石武学流」が広く普及し、影響を受けた前庭が保存地区内には6カ所ある。時代の流れに合わせ、庭づくりも変化していったことは伺えるが、当時の庭づくりがどのようなものだったのかは、残念ながら知る由はない。

また、裏庭には自家菜園の畑が設けられた。カキやクリなどの果樹が植えられ、冬になれば雪寄せ場として活用していた。中・下級武士たちの自給自足の生活に想像を馳せることができる。

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どの屋敷も座敷から前庭が見えるような造りになっている

仲町の成り立ちと住民たちの活動

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旧伊東家住宅の薬医門

江戸時代の武家住宅の主屋は、建屋坪数や材料の規定、藩の家作規制を受けた規格化が進んでいたことから、屋敷ごとの相違は認められていなかった。

明治時代に入り、規制がなくなり、武家住宅も新たに増築や改造などはあったものの、大きな変革はなく、昭和初期になってもその流れは変わらなかった。東西の街路と南北に配された街路や地割り、屋敷構えといった武家町としての空間が継承されていくが、仲町周辺では開発が進んだ。

重伝建地区に選定された1978年以降、主屋の修理や表門の修景、防災設備の設置といった取り組みが行われ、武家住宅の公開に至った。現在、保存地区で一般開放しているのは「旧笹森家住宅」「旧岩田家住宅」「旧伊東家住宅」「旧梅田家住宅」の4棟。それぞれ紹介していきたい。

中・下級武士の生活が分かる「旧笹森家住宅」

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一時は解体保存され、復原整備されて一般公開となった旧笹森家住宅

旧笹森住宅は小人町にあったものを2012年度に移築復原したもので、文献上確認できる仲町で現存する最古の家。座敷、常居(じょい)などの主要な間取りは当時のままだが、移築に伴い、南通り北側に南面した立地を北面から南面に変更した。1756(宝暦6)年の「御家中屋舗建家図」には、「佐々森傳三郎」の居宅として記載されており、移築にあたっての調査で柱間や間取りが一致していることが判明した。中下級武士の住宅遺構として全国的にも極めて珍しいことから、2016年2月に、旧弘前藩諸士住宅の指定名称で重要文化財に指定された。

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右手には前庭が広がっている

武家住宅の間取りは、接客空間と生活空間とを区別しているのが特徴である。旧笹森家住宅は、その間取りが端的に残る。式台玄関を入って通される4畳の広間と8畳の座敷は、家の主人と客人が相対する空間で、生活空間を経由することなく接客できるようになっている。

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玄関から見た旧笹森家住宅の敷地内
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勝手口から入った土間。靴を脱ぎ中へ入る
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土間から見た台所

また、座敷と広間の畳にはヘリがあり、常居や寝間にはヘリがない畳といったところからも「おもてなし」の姿勢と質素倹約な生活を垣間見ることができる。

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座敷の畳にはヘリが付き、常居の畳にはヘリが付いていない

当時のままの様子を伝える「旧岩田家住宅」

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移築や大きな改造も行なっていない旧岩田家住宅

仲町の東端にある「旧岩田家住宅」は、公開している武家住宅のうち、場所を移さずそのまま残されている唯一の建物である。約220年前の文化年間(1800年代)に建てられたと推定。一度曳家した形跡はあるものの、大掛かりな改修はなく、柱などの主要構造部や屋根葺材料は当初のまま。旧笹森家住宅同様、当時の武士の生活を知る貴重な建築遺構となる。

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裏座敷に飾られている具足と床の間
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家の中央に位置する常居

敷地利用も当時のままに残しているため、中級武士の生活が分かる。座敷から見る庭園は座った目線で楽しめるような作りで、初期の大石武学流庭園の構成を残すとされる。また裏庭(カグヂ)には武家屋敷ゆかりの樹木群が点在し、奥には自給自足な生活を送った武士たちの生活を偲ばせる自家菜園の畑やミョウガやフキなどの食用・薬用の草類が生い茂っていたとされる。さらに冬の雪寄せ場として活用していた。

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座敷から見る旧岩田家住宅の前庭

屋内の間取りは4畳の広間と8畳の座敷は旧笹森家住宅と同じだが、住居スペースには物置と裏座敷がある。裏座敷は現在、床が備わっているが、建てられた当初は裏庭に続くツキニワで、弘前市に寄贈される1981(昭和56)年以前はロフトのような中2階があったという。

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日常の生活を送っていたとされる常居
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物置にはさまざまな調度品を展示している
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2間四方の台所。奥は縁があり、裏庭が広がる

江戸時代以降の居住者の来歴が明らかになっていることも重要で、武家住宅が時代と共にどのように使われていたかが分かり、展示や活用を計画する際に大いに役立った。このように旧岩田家住宅は建物だけでなく、門や生垣、庭や裏庭までも今後に継承するという意味においても貴重な文化財となっている。

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裏庭側の縁

移築した藩医の家「旧伊東家住宅」

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旧伊東家住宅の裏手に旧梅田家住宅がある

元長町(現在の養生幼稚園の南側周辺)にあった建物を移築した、藩政時代に藩医を務めた伊東家の住宅。多様な武家住宅を伝える建物になっている。

最大の特徴は武家住宅とは異なる間取りであること。

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広間からみた玄関
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旧伊東家住宅の座敷。床の間の隣には押し入れがある

武家住宅であれば、式台玄関から広間、座敷と連なり、生活空間である常居とは動線を区別するが、旧伊東家住宅では分けられていない。全体的に仲町にある中下級の武家の屋敷とは違った洗練された造りで、漆喰壁や住居スペースも天井板が備わっている。座敷には棹縁天井を張り、長押をまわし、床には違い棚を持つなど、格式高い構成になっている。

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常居は以前、広間だったと考えられ、土間から上がり床上の広間を通り、座敷へと至る構成だった
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旧伊東家住宅は藩医の住居
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長押や棹縁天井などから、他の公開住宅と違い、格式の高さが感じ取れる

武士の簡素な生活が分かる「旧梅田家住宅」

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2度の移築をへて現在は一般公開となっている旧梅田家住宅

旧梅田家住宅は弘前城西堀に接する五十石町に、「御国産取扱」等の役職を務めた100石取りの森新次郎が嘉永年間(1848~1853)に建てたと考えられる。1872(明治5)年に在府町に移築。梅田氏の所有となったものを、1985(昭和60)年に旧伊東家住宅の西側へ移築され、一般公開となった。当時の武士の質素な生活ぶりがわかる茅葺の合掌造りで、座敷にも天井板を設けていない。幕末でも天井を張らない形式があったことが分かる。旧笹森家住宅や旧岩田家住宅と比較すると、積雪対応に合掌屋根に貫で補強している束を併用するなど、江戸時代後期において武家住宅の発達ぶりが分かる造りとなっている。

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旧梅田家住宅正面。立派な茅葺屋根が見える
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天井板を設けない天井。屋根を支える小屋組(こやぐみ)

間取りは張り出した幅1間半の式台玄関を入ると、広間、座敷、常居、台所を正方形に配置し、寝間と土間が奥にある。6畳の広間となる(現在は3畳に区分けされている)の隣に8畳の座敷と、同じ広さの常居。座敷と常居は縁側で連なり、天井を張っていないことから小屋組という屋根を支える骨組みが分かる構造になっている。

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タンスや囲炉裏などの調度品なども展示している
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玄関を入り右手に座敷がある。床の間、左の襖の先は縁

冬の風対策で北と西は閉鎖的に壁で覆い、南と東は採光と風通しを良くした造りになっている。

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座敷と常居をつなげている縁
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無双窓は換気や採光、通風性に優れている

今後の継承と次世代育成が課題

仲町はサワラ生垣や樹木群、庭園といった江戸時代の武家住宅の伝統に由来する豊かな自然環境が保存され、武家住宅や表門などの伝統的建造物と一体となった歴史的なおもむきを構成している。弘前には城郭や寺社、近代洋風建築やモダニズム建築など、多彩な文化財建造物がある中で、江戸時代の城下町の姿が残る仲町は、弘前に限らず、国内でも稀有な存在として、建築文化の街としての価値を与えている。

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旧伊東家の正面玄関。門を入って右手に前庭があるが板塀で仕切られている

2019(平成31)年1月1日現在では、仲町の人口390人、世帯数は214世帯。少子高齢化の全国的な流れはこの地区にもあり、高齢化が進んでいる。無電柱化や消流雪溝の整備が完了し、景観の向上と地区住民の負担軽減を図る取り組みが行われているが、後世に伝えていくための次世代への継承が課題となっている。

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街頭で独特の雰囲気が生まれる仲町

日常的に行われているサワラ生垣のせん定や雪囲いといった作業についても、雪国に根差した生活文化の一つである。地域に生活する人々が培ってきた文化を、これからどのようにして後世へ伝えていくのか、まちなみの保存だけではない、継承の取り組みが必要とされる。

建築概要

名称 弘前市仲町伝統的建造物群保存地区
建築面積 10.6ヘクタール
所在地 青森県弘前市若党町ほか
文化財指定 国選定重要伝統的建造物群保存地区

沿革

慶長3年(1598) 弘前藩初代藩主津軽為信によって弘前城築城計画
慶長16年(1611) 二代藩主信枚によって弘前城完成。町割が行われる
宝暦6年(1756) 旧笹森家住宅が「御家中屋舗建家図」に掲載
寛政時代〜文化年間(1800年代) 旧岩田家住宅建造
旧伊東家住宅建造
嘉永年間(1850年代) 旧梅田住宅建造
昭和50年(1975) 「城下町の風格保存懇談会」を設置
昭和53年(1978) 国重要伝統的建造物群保存地区に選定
昭和55年(1980) 旧伊東家住宅移築復原、公開開始
昭和58年(1983) 旧岩田家住宅修理復原、公開開始
昭和60年(1985) 旧梅田家住宅移築復原、公開開始
平成25年(2013) 旧笹森家住宅移築復原、公開開始
平成28年(2015) 旧笹森家住宅、重要文化財指定
令和元年(2019) 消流雪溝整備工事・無電柱化工事完了

基本情報

住所 旧笹森家住宅:青森県弘前市若党町72 地図
旧岩田家住宅:青森県弘前市若党町31 地図
旧伊東家住宅:青森県弘前市若党町80 地図
旧梅田家住宅:青森県弘前市若党町80 地図
営業/休業 【休館】
旧笹森家住宅:4~6月:なし、7~10月:月・木、11~3月:月火金土日、8/13、年末年始
旧岩田家住宅:4~6月:なし、7~10月:月・木、11~3月:水木金土日、8/13、年末年始
旧伊東家住宅:4~6月:なし、7~10月:火・金、11~3月:月~木 8/13、年末年始
旧梅田家住宅:4~6月:なし、7~10月:火・金、11月:月火金土日、12~3月休館、8/13
営業時間 9:00~16:00
料金 無料
交通 ●旧笹森家住宅、旧伊東家住宅、旧梅田家住宅
【バス】
JR弘前駅より弘南バス ためのぶ号(100円バス、冬期運休)「津軽藩ねぷた村」下車 徒歩約5分
JR弘前駅より弘南バス 石渡線乗車「亀甲町門前」下車 徒歩約3分

●旧岩田家住宅
【バス】
JR弘前駅より弘南バス ためのぶ号(100円バス、冬期運休)「津軽藩ねぷた村」下車 徒歩約5分
JR弘前駅より弘南バス 石渡線乗車「亀甲町門前」下車 徒歩約5分
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