弘前城東北で唯一の現存天守と城址を活用した「弘前公園」
- 津軽家の居城として誕生した弘前城
- 弘前城が生まれた背景
- 全国で現存する12天守だが…?
- 築城当初のまま現存する城門
- 当初の大手、亀甲門
- 現在の正面門「追手門」。その注目点は
- 鋳鉄製の鯱の乗る三の丸東門
- フォトスポットになる二の丸東門
- 紅葉シーズンに最も輝く二の丸南門
- 弘前城天守よりも古い3基の櫓
- 雪国の厳しさを物語る二の丸未申櫓(ひつじさるやぐら)
- 八幡宮祭礼の山車を藩主が高覧した二の丸辰巳櫓(たつみやぐら)
- 最も古い様式を残す丑寅櫓(うしとらやぐら)
- 失われた櫓の跡
- 積雪寒冷地仕様の銅瓦葺
- 城内の除雪事情
- 石垣修理のため曳屋した弘前城天守
- 先人の思いを受けて
- 本丸入り口にある巨石「亀石」
- 本丸御殿の威容
- 本丸へのもう一つの入り口
- 豊臣秀吉の木像を祀った館神跡
- 時代と共にさまざまな使い方をされた北の郭(くるわ)
- 橋から見る弘前公園の魅力
- 明治以降の弘前城
- 史跡として「弘前公園」の特徴
桜の名所と知られる弘前公園は、1895(明治28)年以来、市民の憩いの場として120年以上親しまれてきた。弘前公園は、藩政時代に津軽一帯を統治していた弘前藩津軽家の居城のほぼ全域を開放したものであり、築城当初の縄張りの全容が残っている全国的に見ても稀有な城跡でもある。その大きさは東西約600メートル、南北約1000メートル、面積約49ヘクタールの中に、三重の濠(ほり)と土塁(どるい)に囲まれた6つの郭(くるわ)から構成されている。弘前公園の桜が「日本一の桜」と称されるのは、弘前公園内に点在する櫓や城門が背景になり、その美しさを引き立てていることが理由に挙げられるだろう。
津軽家の居城として誕生した弘前城
弘前公園が城跡として史跡指定を受けたのは1952(昭和27)年。その後、近世大名津軽氏の居城である3つの城跡、種里城跡(鯵ヶ沢町)、堀越城跡(弘前市)などが追加で史跡の指定を受けたことで、津軽氏城跡に指定名称が変わったものである。弘前城跡にはさらに弘前城南西の出城的な空間である「長勝寺構」と、溜池を中心とした弘前城南方の防御ラインである「新寺構」の2つの要素が加わる。「史跡津軽氏城跡」は、弘前城の城郭としての歴史や、縄張などの残存状況、石垣や建造物といった城郭に関連する遺構の意匠鑑賞上の優秀性なども含めて、歴史的に価値が高い。
弘前城が生まれた背景
弘前城は、津軽信枚によって1611(慶長16)年に完成した。その父・津軽為信の築いた堀越城は、本丸を中心とする求心的な郭配置を有していたとはいえ、中世以来の津軽地方の土木技術の限界を超えるものではなく、津軽統治の上で、在地の勢力に自己の権力を示すまでには至っていなかった。また、水害などにたびたび見舞われたことなどから、立地の面から不安を抱えていた。対する弘前城は、新興津軽家が津軽地方を統治する上で欠かすことのできない威信装置として計画されたと考えられる。短期間に圧倒的な物量を集中することで忽然と巨大な石垣などを伴った近世城郭と城下町を顕現させるような巨大な権力は、それまでの津軽地方には存在していなかったもので、津軽地方に津軽家を頂点とする強固な統治体制が構築されたことを内外に示すものとなったのである。
全国で現存する12天守だが…?
弘前城天守は、江戸時代以前に建築された12天守の一つだが、築城当初のものではなく、1810(文化7)年の再建(当初の天守は1627年に焼失)である。 争乱の時代の天守とは役割が異なることを示すように、層塔型のすっきりとした外観に、古式を模した素木をあらわした風情ある建物である。 この天守については、「本丸の辰巳櫓を改築したので天守ではない」という説が、弘前市民によって自虐気味に語られることがある。だが、果たしてそうだろうか?まず、当時の記録を見ても、本丸の南東隅にあった「物見」を解体撤去の上で建築していることが分かっているので、改築ではないことは明らかである。 では、天守ではないというのは、正しいのだろうか。
1808(文化5)年に江戸幕府へ提出した弘前藩の城郭修補申請には、本丸にあった櫓3棟を焼失したことから、すべてを再建したいとあり、幕府はそれを許可した。弘前藩は櫓3棟の再建許可を幕府から得たことに対し、南東隅に三層の「櫓」のみを再建した。 天守の棟札に「御櫓新規御造営」とあるように、南東隅に建てられた建物は、藩政時代を通じて「櫓」として記録された。明治に入ると、弘前城跡を所管した陸軍の書類では「第壱号隅櫓」として扱われる一方、地元の書類や地元新聞に「天守閣」という呼称が登場するようになった。
再建時、藩主津軽寧親は天守同様の建物を建てたいという意向を持っていたという記録がある。実際に他の現存する櫓と比較しても規模が大きく、二の丸側から見る意匠は城内随一の優美さであり、明確に天守としての役割を期待されて建造されたことがわかる建物である。再建に関わった藩士や職人たちも、天守を再建しているという意識があったかもしれず、日ごろから天守と呼んでいたかもしれない。そして、幕府の城郭統制がなくなった明治以降、慣習的に読んでいた「天守」の呼称が一般化していったものと考えられる。いずれにせよ、当時の人々も現在の弘前市民も、南東隅にそびえる偉容を、「天守」と呼び、仰ぎ見たのである。
築城当初のまま現存する城門
現在弘前城跡には5棟の城門が残っている。すべて2層の櫓門で、土塁の枡形虎口に面して独立して建っている。装飾はほとんどなく、番所部屋も必要最小限で、上階も中柱や間仕切りがない。天井は張らない。また、木部すべてが露出するなど、全国的に見て古い形式のつくりとなっている。全ての城門が銅瓦葺きであり、内法高の高さが全国的に見ても際立って高い。これらは、積雪寒冷地である弘前に気候に対応するための工夫であると考えられているが、銅瓦葺きについては建築当初のものではなく、凍害対策などで屋根を葺き替えて現在の形になっている。
当初の大手、亀甲門
弘前城の城門は、ほぼ同じ規模で建てられ、造作もほとんど違いがない。その中で、亀甲門だけは、一回り大きく、銃眼を持たない、そして柱間が京間(6尺5寸)であるなど、他の城門と異なっている。亀甲門には、津軽為信が攻め落とした大光寺城の城門を移築したという伝承があり、城内で唯一戦火を経験した建物であるとされている。他の城門との差異は、その来歴の違いによるとされるが、これは、元々の城の正面である大手の門が、亀甲門だったことによる差異と考えた方が蓋然性は高いと考えられる。築城当初は、鯵ヶ沢から深浦を経て秋田経由で江戸へ向かう参勤交代の経路だった。そのため、正面は北側に設ける必要があった。城郭の正面玄関である大手の門は、他の門よりも大きく立派であるべきで、京間が用いられているというのも、大手の門のために特別に招聘した職人が関わったことを想像させる。現在の亀甲門の風格のある佇まいは、築城当初の大手の門としての佇まいなのである。
現在の正面門「追手門」。その注目点は
1665(寛文5)年に参勤交代の経路を碇ヶ関経由に変更したことに伴い、大手は南側へ変更された。他の現存する城門とほぼ同規模で柱間は田舎間(6尺)が用いられている。棟高は約11mである。屋根は入母屋造銅瓦葺。大棟は箱棟で両端に鯱が付く。降棟と隅棟には鬼板が付く。四方に腰屋根がまわる。外壁は真壁白漆喰塗で、木部は素木造の黒墨塗。上層に銃眼と出格子窓を設ける。下層の屋根を高く置く。
鋳鉄製の鯱の乗る三の丸東門
三の丸東門は他の現存する城門とほぼ同規模で柱間は田舎間(6尺)が用いられている。棟高は約11mである。屋根は入母屋造銅瓦葺。大棟は箱棟で両端に鯱が付き、降棟と隅棟には鬼板が付くが、他の城門とは異なり、どちらも鋳鉄製である。弘前城の城門は、18世紀前半から随時銅鯱が大棟にあげられたが、三の丸東門だけは、理由は不明だが鋳鉄製の鯱と鬼板が用いられた。現在は弘前城本丸から最も近いことから公園の入り口として利用する観光客も多い。
フォトスポットになる二の丸東門
二の丸東門は、他の現存する城門とほぼ同規模で柱間は田舎間(6尺)が用いられている。棟高は約11mである。屋根は入母屋造銅瓦葺。大棟は箱棟で両端に鯱が付き、降棟と隅棟には鬼板が付く。下層正面の鏡柱にケヤキの一枚板を化粧材として張り付けるほか、地覆、柱、楣、二階根太、垂木などで化粧材の小面をとっている。これは、二の丸への入り口となることから、より内側の門としての格を示したものだと考えられている。
門を通ると、正面に青森県指定の天然記念物である、1882(明治15)年植栽のソメイヨシノの大樹が現れ、桜の季節には二の丸東門と共にフォトスポットにもなっている。
紅葉シーズンに最も輝く二の丸南門
二の丸南門は、他の現存する城門とほぼ同規模で柱間は田舎間(6尺)が用いられている。棟高は約11mである。屋根は入母屋造銅瓦葺。大棟は箱棟で両端に鯱が付き、降棟と隅棟には鬼板が付く。城内の城門の多くは、19世紀前半には銅瓦に葺き替えが行われたと考えられるが、18世紀の後半に銅瓦の修理を行った記録が残っており、最も早い時期から銅瓦で葺かれていたと考えられる門である。門東側の桝形の土塁にある紅葉は城内でも指折りの美しさで、西側から城門の門構えをフレームに見立てて写真を撮影するカメラマンが毎年絶えない。
弘前城天守よりも古い3基の櫓
現在弘前城内に残る櫓は、すべて二の丸にある。二の丸辰巳矢倉、未申櫓、丑寅櫓である。
いずれも三重三層で、入母屋造とち葺状銅板葺きで、棟高は訳11mである。建築時期はどれも築城時に求められるが、その後の修理履歴の違いにより、造作などに多少の差異がある。櫓の呼称は、方角によるもの。
雪国の厳しさを物語る二の丸未申櫓(ひつじさるやぐら)
未申櫓は二の丸南門に近く、二の丸の南西に位置する。他の現存する櫓とは異なり、初重に心柱があるが、これは、現存しない北の郭子の櫓と同じ仕様となっている。また、現在のように、土塁の上に切石の石垣を積んで上で櫓を据えたのは、大規模修理を実施した1852(嘉永5)年の時のことと考えられている。未申櫓には台石垣があるが、実は当初からあったものではない。積雪対策として建造から約150年たった1852(嘉永5)年に積み直されている。その理由は櫓の下部が雪で埋まってしまうことから。維持管理が難しかったからと推測される。
八幡宮祭礼の山車を藩主が高覧した二の丸辰巳櫓(たつみやぐら)
現存する櫓の中では本丸に最も近く、二の丸の南東にある。藩政時代、弘前城下最大の祭りは弘前八幡宮の神輿渡御の祭礼だった。各町会が大型の山車を出して、殿様や八幡宮への感謝を込めて城下を練り歩いた。そのルートは、弘前八幡宮から田茂木町、亀甲町を経て亀甲門から城内へ入り、三の丸を抜けて追手門から城下南部へ抜けていくというものだったが、三の丸を練り歩く際に、歴代藩主が山車を高覧した。祭りは、1682(天和2)年から始まり、以後度々二の丸辰巳櫓において4代藩主・津軽信政が高覧した記録が残る。
三層目の板壁や、棹縁天井、そして藩政時代の記録から畳が敷かれていたことがわかり、居住性が高い作りとなっている。1821(文政4)年に大規模修理が行われ、その際に石垣を積んでいる。
それぞれの櫓は現在、非公開(イベント時などには公開)。
最も古い様式を残す丑寅櫓(うしとらやぐら)
二の丸の北東に位置する二の丸丑寅櫓は、他の現存する櫓と異なり石垣が積まれず、土塁の上に礎石が据えられている。初層の床は、他の櫓では板張りだが、丑寅櫓はたたき土間となっている。大規模修理の記録がないことからも、最も当初の形式を残した櫓であると考えられている。中濠の水面と秋に染まる紅葉が、丑寅櫓を飾り立てる。
失われた櫓の跡
1906(明治39)年に花火のため焼失してしまった「子の櫓(ねやぐら)」がある。北の郭の北東端にあった。現在は、櫓の礎石を露出展示している。二の丸未申櫓と同じく、心柱を据える形式となっている。本丸・北の郭エリアは入場有料。
他に本丸に戌亥櫓台と未申櫓台跡が残る。また、同じく1906(明治39)年にたばこの不始末で焼失してしまった西の郭未申櫓跡が残る。
積雪寒冷地仕様の銅瓦葺
弘前城天守の瓦は瓦状の木型に銅板を被覆した銅瓦葺を使用している。弘前城は天守と城門が銅瓦葺だが、もともとは本瓦葺だった。瓦が凍ることで破損し、雨漏りを引き起こすなどの寒冷地ならではの問題を抱えていたことから、凍害に強く軽い銅瓦葺を採用することになった。
城内の除雪事情
ちなみに城内の除雪はどうだったのか?藩政時代、城内の通路や馬場などの除雪、建物の雪下ろしには多くの人員を割いていたことが記録されている。除雪は掃除方の管轄だったが、手が回らなくなると「町人足」を雇って対応したという。また、城門の外の枡形の除雪は、城門の番所勤務の足軽の仕事とされた。足軽は勤務する人数が少ないので、積雪量が増えると対応に苦慮したようだ。掃除方が手伝うということはあまりなかったようで、江戸時代の除雪の現場は、組織の縦割りの理論が幅を利かせていたようである。
石垣修理のため曳屋した弘前城天守
弘前城天守は、曳屋工事により、2015(平成27)年8月から約二か月をかけて天守台から西北方向へ約70メートル移動した。「曳屋」とは、建物を解体せずに移動させる工事のことで、本丸東面の石垣に以前から膨らみが確認され、崩落する危険性があることから、石垣を解体修理することに伴っての曳屋だった。大工事の着手にあたって、今この瞬間だけ、見る、体験できるコンテンツとして曳屋工事をデザイン。プレミアムな観光資源として発信した。9月20日から開催した「曳屋ウィーク」では、約4000人の人が曳屋のためにジャッキアップして台車に据えられた天守からのびるロープを曳いた。その様子は国内外のメディアに取り上げられ、弘前市の大きなPRにつながった。
先人の思いを受けて
弘前城の本丸東側の石垣は、1699(元禄12)年に完成した。築城から長らく土羽の状態だった部分に石垣を積み足したのである。築城当初は、おそらくは地下水などの影響で石を積むことができなかったと考えられるが、こうした特徴は、その後も本丸東側石垣に影響を及ぼした。1894(明治27)年、1896(明治29)年と相次いで石垣が崩落し、1896年の崩落は天守を西側に曳屋することとなった。最終的に石垣が積みなおされたのは1915(大正4)年のことで、今回の修理は約100年振りのこととなった。
修理にむけての解体調査で、100年前の先人たちの挑戦の痕跡が確認された。
再度の崩落を防ぐため、根石付近に帯コンクリートを敷設し、石垣内部に間知石を積むなどの補強のための工夫が随所に確認できた。先人たちは、もともとのあまりよくない自然環境の中、最大限の工夫によって城跡のシンボルである石垣を維持しようと努力したのである。
本丸入り口にある巨石「亀石」
弘前城の石垣に使われている石は、「石森」(現在の「弘前市りんご公園」付近)と岩木山山麓の兼平(かねひら)や如来瀬(にょらいせ)等から採取したものだと記録に残っている。本丸の南側の桝形には、石垣隅の稜線の大部分をひとつの巨石で形成する「亀石」や、正面に平滑な面を見せる大ぶりの石を据える。大坂城の「蛸石」が最も有名な事例だが、巨石を用いた石垣は、権力や財力を目に見える形で示すために使われる。当時の人々は登城の度にこの巨石に圧倒され、津軽氏の威信をまざまざと感じさせられたのだ。
本丸御殿の威容
本丸には、藩政時代を通じて本丸御殿が建てられていた。藩主の私生活の場であり、同時に政務や公的な行事を執行する場として機能し、弘前城における最重要の建物だった。間取りは、17世紀半ばころから改造や拡張によって確立していったと言われ、用途によって、玄関及び御用所、表座敷、奥座敷、奥、台所、能舞台や武芸所に分類される。御用所は玄関近く、藩士が執務する中央官庁の役割を持ち。表座敷は公的な儀式を行う公会堂の役割、そして、奥座敷は藩主の政務執行の場であり、奥は藩主の私生活の場だった。明治の廃藩以後、本丸御殿は取り壊されたが、そのことが現在の市民の憩いの場である弘前公園の姿へとつながっていくことになる。本丸御殿のミニチュア模型が天守の三層目に展示されており、現在の本丸と見比べてみるとおもしろい発見があるかもしれない。
本丸へのもう一つの入り口
本丸戌亥櫓台下には犬走がある。藩政時代の絵図を見ると、戌亥櫓台より少し南側に犬走から本丸へあがる道と門が描かれている。当時は、藩士の通勤経路等として整備されていたのだ。本丸御殿の西側には、「西湖之間」と呼ばれる区画があり、緊急時、藩主はここで「早道」の報告を受けることがあった。「早道」は目付の役割と情報の伝達を担当した役職だったが、この犬走の道もその際に活用されていたと考えられる。
豊臣秀吉の木像を祀った館神跡
館神は、北の郭の南東に区画された空間で、城の守り神であり、藩政時代を通じて、社殿が置かれ、藩主家の人たちや神官など、限られた者しか入ることができない場所だった。明治に入り、館神の社殿を解体した際、それまで館神と考えられていた稲荷神像の背後から、豊臣秀吉の木像が発見された。来歴は様々な説があるが、おそらくは、2代藩主津軽信枚が安置したものとされている(現在は革秀寺が所蔵)。現在、館神跡の遺構は盛り土により保護し、その上に鳥居の礎石及び柱、本殿の柱、柵列の柱を印がつけられている。
本丸の石垣や下乗橋、鷹丘橋といった弘前城を象徴するものを内濠と一緒に撮影できる構図から、カメラマンが集まるフォトスポットになっている。
時代と共にさまざまな使い方をされた北の郭(くるわ)
本丸の北にある「北の郭」は、本丸に接している小さな郭だが、藩主の家族が居住したり、本丸に次ぐ場所として機能していた。4代藩主・津軽信政の代には、その生母・久祥院の屋敷があった。その後は、籾蔵(もみぐら、凶荒年に備えて米を籾のままで貯蔵しておく蔵)などが立ち並んでいた。現在、籾蔵跡の遺構表示等の整備が行われている。
明治以降、「北の郭」には柔剣道の練習場として武徳殿が建てられた。現在は土産物店や喫茶店、休憩スペースを備えた施設になっている。また、弘前公園の標準木はこの場所にあり、毎年ソメイヨシノの開花情報を発表している。
橋から見る弘前公園の魅力
弘前公園には下乗橋(げじょうばし)や鷹丘橋、杉の大橋といった朱色の橋が弘前公園の美しさとマッチしている。下乗橋はその名の通り、藩士は馬から降りるように定められていた橋で、本丸と二の丸を結ぶ。桜のシーズンとなれば、フォトスポットとなり、多くの観光客が足を止める。
春陽橋(しゅんようばし)は西濠にかかる公園内では最長の橋。1932(昭和7)年に市民の利便性のために架橋されたが、現在は観光客で賑わうスポットの一つ。西濠の両岸に咲く桜の美しさが人気。
明治以降の弘前城
江戸時代までの大名の居城は明治維新と廃藩置県の結果、全国的に多くが廃城となった。弘前城も同じく廃城となり、濠の水は枯れて雑草が生い茂って橋は朽ち果てていたという。しかし、2つの転換期があった。
1つは弘前城の城址を明治時代に陸軍省が管理したこと。三の丸を陸軍が兵器支廠などに活用した。そしてもう1つは、それ以外の区画を、市民に解放し公園としたことである。弘前藩最後の藩主だった津軽承昭の強い意向があったと言われ、1895(明治28)年には弘前公園として開園し、1902(明治35)年には弘前市が管理を引継ぎ、現在に至った。
桜が本格的に植樹されたのはこの時期。1918(大正7)年には「弘前さくらまつり」の前身となる「観桜会(かんおうかい)」が始まり、以後、弘前公園の桜は有名になっていく。
史跡として「弘前公園」の特徴
直木賞作家・司馬遼太郎氏は紀行文集「街道をゆく―北のまほろば」の中で弘前城を紹介し、「日本七名城の一つ」としている。江戸時代以前に建てられて現存する天守をはじめ、城郭の全容が当時のまま保たれ、その規模などを現在でも実感できる極めて貴重な場所で、財団法人日本城郭協会主催の「日本100名城」にも選定された。また、全国有数の桜の名所としても知られる弘前公園は観光地として、ゴールデンウイークには200万人以上が訪れる。
一方で、弘前市民にとっては街の中心にある公園で、散歩コースや憩いの場として親しまれ、一年を通じて何度も足を運ぶ人は少なくない。400年以上の歴史があるにも関わらず、垣根なく利用されていることこそが弘前公園の最大の特徴なのかもしれない。
建築概要
名称 | 弘前城 |
---|---|
構造・規模 | 38万5200平方メートル |
所在地 | 〒036-8356 青森県弘前市大字下白銀町1番地 |
文化財指定 | 国宝(1937(昭和12)年7月指定) |
沿革
1594(文禄3)年 | 津軽為信、大浦城から堀越城に本拠を移す |
---|---|
1603(慶長8)年 | 高岡に町割りを計画 |
1609(慶長14)年 | 津軽信枚、築城着手 |
1611(慶長16)年 | 弘前城ほぼ完成 |
1627(寛永4)年 | 落電により天守焼失 |
1628(寛永5)年 | 高岡を弘前に改称 |
1810(文化7)年 | 天守を再建 |
1871(明治4)年 | 廃藩置県。東北鎮台の分営が置かれる |
1895(明治28)年 | 弘前公園として開放 |
1937(昭和12)年 | 天守以下8棟が国宝指定 |
1952(昭和27)年 | 弘前城跡として国の史跡に指定 |
1954(昭和29)年 | 三の丸東門重要文化財指定 |
2015(平成27)年 | 本丸石垣解体工事開始、天守曳屋 |
基本情報
区分 | 重要文化財・国の史跡 |
---|---|
住所 | 青森県弘前市大字下白銀町1番地 |
所有者 | 弘前市 |
入館時間 | 9:00〜17:00(4月1日〜11月23日) |
公開状況 | 本丸・弘前城天守・北の郭(入場料:320円) |
交通 | 【バス】 JR弘前駅より弘南バス 「市役所前公園入口」下車 【車】 東北自動車道 大鰐弘前IC 弘前市内方面へ約30分 |
関連リンク |