時代を読み解き、世相に合わせて改変を続けた弘前最古の老舗旅館
街並みに馴染む端正な外観と、その奥行に広がるタイムトリップに魅了
- 小間物屋との兼業から始まった旅館業
- 創業から10年。世相に沿った増改築に着手
- 高貴な意匠たちが物語る老舗旅館の軌跡
- 迷路のような間取りと構造の表現にみる増改築の情趣
- ユニークなアイデアと計算された構造の妙技
- 明治から未来へ。地域の「拠り所」として文化的価値の創造を育む
城下町・弘前ならではの情緒を引き立て、穏やかに佇む「石場旅館」は、明治12年(1879)に創業。時代ごとの世相を読み解き、宿泊客のニーズに寄り添いながら歴史を紡いできた、弘前最古の旅館建築らしい風格を漂わせている。
建築面積456平方メートルを有し、東西に入母屋造鉄板葺の屋根を持つ2棟を雁行させた造りが特徴の石場旅館。日本の伝統工法のひとつである妻入の木造2階建で、東側を前方に出して玄関やフロントを配し、後方に土蔵を附属して北西の棟に広間や客室を設置している。正面から望む白の漆喰壁と、黒塗りの付柱や付梁とのコントラストが趣のある街並みに馴染み、凛とした印象を与えている。
小間物屋との兼業から始まった旅館業
明治4年(1871)の廃藩置県以降、日本の近代化が著しく進んだ激動の明治時代。混沌とした時代にあって、もとは藩士であった創業者・石場久蔵は、現在の正面玄関を中心とする棟の1階で小間物屋を、2階で旅籠を営み生計を立てていた。創建当時は、この前棟の建物のみで、外に蔵や井戸を配する造りであった。
創業から10年。世相に沿った増改築に着手
明治22年(1889)、当時青森県最大の都市だった弘前に市制が布かれた頃、石場旅館は業況が好調だったのか、大きく増築を行った。蔵や井戸を建物内に取り込むほか、前棟と奥棟を繋ぐ1階中央には太鼓橋をあしらい、非日常的な空間へと誘うような斬新な仕掛けを施した。付近の壁には歴史的な要人の宿泊を知らせる札がかかり、弘前城由来と伝えられる調度品がさりげなく置かれるなど、客人の心を惹き付けようという「おもてなし」の心意気が随所に感じられる。招き入れた際に、この太鼓橋が目に留まるように設えた要人専用の入口跡からも、往時の様子は想像に難くない。
高貴な意匠たちが物語る老舗旅館の軌跡
東棟正面の南寄りにある玄関から入館し、帳場を通過していくと、奥の壁面にかけられた渋柿の艶の柱時計が目に留まる。長きにわたり歴史を見守り続けたこの柱時計には、館主によって「ときの娘」という愛称がつけられ、現在も客人たちを迎えている。
柱時計の動線には従業員室や厨房、江戸時代から続く雛人形や館内の見取り図が飾られている。
廊下の天井は、茶室等に用いられる工法「網代」をモチーフにした造り。遊び心のあるデザインが、作り手のセンスの良さを表している。
貴賓者専用の玄関跡。皇室関係者や要人が宿泊する際には、庭を通ってこの玄関から入館し、太鼓橋を渡ってすぐの奥の階段を上って2階の客室を利用したと伝えられている。階段下の壁面には、北白川宮成久王や板垣退助など、歴史的な要人たちが訪れた証として宿泊看板が並ぶ。
弘前城から受け継がれたとされる、手入れの行き届いた屏風や鏡などの調度品や骨董品の数々。開業後の繁盛ぶりや明治中期の様相を彷彿とさせる貴重な資料として残されている。
迷路のような間取りと構造の表現にみる増改築の情趣
太鼓橋を分岐点として3つの方向に動線が展開されている。
渡ってすぐの階段を上り2階客室へ、廊下を直進して1階客室や浴場のある棟へ、そして西北に屈折した廊下を通り、西に増設された客室棟に向かう渡り廊下に繋がって、左右に客室が並んでいる。
廊下の手前部分は東と北に縁側が付き、襖で仕切ることが可能な20畳ほどの大広間になっている。
太鼓橋たもとから廊下を直進すると、突き当り右方向には客室、左方向には洗面所や浴室へと繋がる。もとは浴室であった場所とされる通路途中のすりガラスには、「いちやままる」の屋号印が残されている。
太鼓橋たもとの螺旋階段で2階へ。
玄関を中心とする創設当時からの部分は、中廊下を東西に通し、北側に縁側を残す。2階は南側に客室を置くが、当初の旅籠の時からの間取りを残す。廊下の突き当り正面には1階に繋がる階段があり、南側は蔵前の吹き抜け、北側は奥の客室棟への通路で、階段を付けた廊下で繋げている。増築された奥棟部分は1階と廊下の位置がほぼ重なり、真下に位置する大広間と同様の構造であったものを壁で仕切り、客室を増やしている。
現在の客室は全18室。昭和期に入り、生活様式と家族構成の変化などによってプライベート空間の需要が高まり、宿泊客のニーズに合わせて改修されたことがうかがえる。
西側部分の総2階の屋根が南に延びて蔵を取り囲んでいる。明治22年に増築の際、もともと外にあった蔵は建物内に取り込まれた。
敷地の北側には、津軽地方特有の作庭流派である「大石武学流」の庭園が設けられている。近代の津軽地方一帯を風靡した庭園で、当時の庭園の多くが大石武学流の流儀に則って作庭された。石場旅館の庭園も例外ではなく、当時は流儀に則った飛石や築山、滝石組などがあったとされるが、昭和期の増改築の際にかたちを大きく変えている。
ユニークなアイデアと計算された配置の妙
明治22年に、西側に座敷を中心とする増築棟を雁行状に置くことで、旅館構えとして重厚さを増していった石場旅館。増築部分との境に太鼓橋を架けるなどのユニークなアイディアと、当時建物の前面に馬小屋を配置するなどの屋敷構えを活かした配置の妙は、宿泊者の心をとらえたに違いがない。
明治から未来へ。地域の「拠り所」として文化的価値の創造を育む
高度成長期を過ごし、スクラップ&ビルドが繰り返されてきた日本の建築事情に相反して、修繕ではない増改築を積み重ねた迷路のような構造は、明治期から昭和期の世情を辿る意匠といえる。平成20年(2008)には弘前市の「趣のある建物」、4年後には国の登録有形文化財、弘前市の景観重要建造物に指定され、現在も地域の文化的価値を創造し続ける「拠り所」として、人々に温もりと安らぎを与える空間を提供している。
建築概要
名称 | 石場旅館 |
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設計・請負 | 不明 |
竣工 | 1879(明治12)年 |
構造・規模 | 木造2階建、鉄板葺、建築面積456平方メートル |
所在地 | 〒036-8355 青森県弘前市元寺町48 |
文化財指定 | 景観重要建造物、登録有形文化財(建造物) |
沿革
明治12年(1879) | 道路側の表部分を建築し、小間物屋と旅籠を開業 |
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明治19年(1886) | 創業者・石場久蔵が当時の駅伝取締所から駅伝宿舎の木札を受ける |
明治22年(1889) | 奥部分の棟を増築 |
明治29年(1896) | 陸軍発行の冊子「大日本旅館」に掲載 |
昭和10年(1935) | 昭和天皇の弟宮である秩父宮(ちちぶのみや)殿下が歩兵第31連隊第3大隊長に着任 |
昭和15年(1940) | 北西側に増築 |
昭和30年代(1955~) | 客時の要望を受け現在の間取りに改修 |
昭和45年(1970) | 建物正面を改装 |
平成20年(2008) | 弘前市「趣のある建物」に指定 |
平成24年(2012) | 国の登録有形文化財に指定 |
平成24年(2012) | 弘前市景観重要建造物に指定 |
基本情報
区分 | 登録有形文化財(建造物) |
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住所 | 〒036-8355 青森県弘前市元寺町55 |
営業/休業 | 無休 |
営業時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 無料(宿泊料金等別途) |
交通 | JR弘前駅より弘南バス土手町循環100円バス「文化センター前」下車徒歩約3分 |
関連リンク |